エーザイの「人財計算式」 人の価値を見える化する

本社コメンテーター 中山淳史

2022年の春季労使交渉が本格化している(労使フォーラムであいさつする連合の芳野友子会長)
2022年の春季労使交渉が本格化している(労使フォーラムであいさつする連合の芳野友子会長)

2022年の春季労使交渉がたけなわだ。関心はやはり、岸田文雄首相が「3%以上」を求める賃上げの行方だ。しかし議論を見るにつけ疑問に思うのは「人はコストである」ことが、どこか前提にある点だ。

人は本当に単なるコストか。確かに企業会計上は販管費、売上原価など費用の部類に入る。貸借対照表には資産にも資本にも人の価値があまり表れることがない。

とはいえ、労使の対話がコストの話だけで終わってよいわけではない。政府の場合も「コストを増やせ」との呼びかけに聞こえる点を改めないと、市場には賃上げ→減益→株価下落の連想が広がり、企業の価値を傷めるだけだ。

減少続く日本企業の能力開発費、米欧に見劣り

重要なのは「人財投資」という視点ではないか。人件費というと思い浮かべるのは賃金や一時金だが、実際は社員教育や福利厚生などを含めた議論である。最近注目のリスキリング(学び直し)の取り組みも、そこに入る。

厚生労働省の「平成30年版労働経済の分析」によれば、日本企業の10~14年の能力開発費は国内総生産(GDP)比で0.1%(5年間平均)と米欧諸国に大きく見劣りする。しかも1995~99年(0.4%)以降、5年ごとの結果は一貫して減少が続く。

電機産業のリストラなどで「人はコスト」との意識が強まった可能性がある。米欧と開いた企業価値の差も「人がコストか投資か」の認識の差で生じたとの仮説は成り立たないか。一方で、人的資本への投資の停滞が「労働市場の流動性を妨げ、賃金増を抑え、デフレ長期化の一因になった」との分析も可能だろう。

では、人と投資の関係をどう考え、可視化するか。注目したい事例が、がんやアルツハイマー病の治療薬を開発する医薬品大手、エーザイが統合報告書(価値創造レポート)で公表する人材価値の計算式だ。

上記真ん中の長い数式がそれだ。早稲田大学で教壇に立つ柳良平専務執行役・最高財務責任者(CFO)が「重回帰分析」という手法を使い、考案した。ぱっと見てわかるものではないが、要は投資とリターンの関係を人件費など費目ごとに詳細に分析し、代表的な株価指標のひとつ、株価純資産倍率(PBR)にどのくらい貢献しているかを割り出すものだ。

PBRとは株式時価総額を、資産から負債を引いた純資産で割った値。1倍を割ると企業の市場価値が解散価値を下回る残念な状態であり、上回れば経営が評価されていることを意味する。直近のエーザイのPBRは2倍強だが、1倍を超えた部分(見えない資産価値)がどこに起因するかが、計算式でわかる。

人件費を増やすと株価に貢献も

最も顕著に貢献するのが人件費だという。投じるお金を1割増やすと、5年後のPBRは13.8%向上する。研究開発費を1割増額したら10年超で8.2%、女性管理職比率を1割増やすと7年後に2.4%それぞれ改善するとの結果を統合報告書で示している。

合計88項目のデータを十数年ずつさかのぼり、過去28年分のPBRの推移と照合したという。ただし、今後も必ずそうなることを確約するものではなく、エーザイの見えない価値を科学的に解析したらそうした傾向が見つかった、という意味だ。

見えない価値を可視化したことで、反響があったのは「内外の長期投資家だった」と柳氏は話す。企業が公表する非財務情報には定性的なものが多く、投資家には人財を含めた企業価値をもっと精緻に知りたいという需要がかねて大きい。だが、統計学やデータ解析の専門家を集めても分析に不可欠な企業の生データを持たないため、運用会社などが見える化にたどり着くのは難しかった。

解析結果を公表したことで、新たな尺度にも投資家の支持を得られたという。生産や営業に投じた人件費と研究開発費を営業利益に足し戻す「ESG EBIT」がそれで、エーザイは「もうひとつの損益計算書」と呼ぶ。20年3月期で言えば、ESG EBITは営業利益の1255億円+人件費・研究費の2423億円で、3678億円だ。

財務情報と非財務情報(人財価値)を足す発想は一見とっぴだが、米欧でもESG(環境・社会・企業統治)を取り入れ、会計ルールをつくろうとの機運が強い。エーザイに関心を寄せたのが米ハーバードビジネススクールで、同社の人財計算式とESG EBITをケースとして紹介。分析方法を一般化し、様々な企業にあてはめる共同研究も進めるという。

一律賃上げではなく、人の価値をどう高めていけるか

一橋大学の小野浩教授によれば、人が資本だという考え方は60年代ごろから存在していた。小野氏も指導を受けたゲーリー・ベッカー元シカゴ大学教授(ノーベル経済学賞)の著書「人的資本」が火付け役だが、価値を可視化する研究が活発化したのは最近になってだ。

日本は上場企業の4割でPBRが1倍を割り込んでいる。「解散価値を下回る、すなわち働く人が価値を生まない」との解釈につながりやすいが、単純な話ではないだろう。きちんと投資をし、価値を測り、市場に示せば、企業の価値形成にも変化は起こりうる。

春の労使交渉も「一律賃上げ」ではなく、人の価値がどうしたら可視化でき、高めていけるか。「人的投資は数年後に価値を生む」可能性がわかってきた以上、そうしたことを話し合う場にしていったらどうか。

[日経電子版 2022年02月09日 掲載]

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