
会社の後押しを受け、新事業の立ち上げを目指すイントレプレナー(社内起業家)が増えている。パナソニックの社内コンペは、勝ち抜けば社長として独立もできる。責任は重いが、果実も大きい。「自分ごと」と仕事を捉えれば、やりがいも高まる。安住の仕事を失うリスクはあるが、その熱意を企業はイノベーションに生かす。
「甘くなくていいね」。ボタンを押して30秒、濃厚なチョコレートをスチーマーで飲みやすい飲料にする機器がある。お酒を加えたりスムージーにしたりとレシピも豊富。全国の飲食店や洋菓子店に機器を貸与しているのが、ミツバチプロダクツ(東京・港)。パナソニック発のスタートアップ企業だ。
社長の浦はつみさん(47)はパナソニックの家電営業出身。「健康増進や美容効果のあるチョコレートを手軽に摂取できるようにしたい」と考え、2018年に独立を決めた。
起業を考えるきっかけとなったのが、パナソニックが16年に始めた社内起業創出プログラム「ゲームチェンジャー・カタパルト」。家電事業の国内社員約2万人らを対象に毎年、ビジネスプランを募る。事業計画書の作成や幹部による審査、事業化検証など厳しい審査を経て、1年かけて50件の応募を2~3件に絞る。
最終選考を勝ち抜いたビジネスプランは、関連する事業部門かカタパルト推進部内で事業化を目指す。パナソニックのほか、同社やディー・エヌ・エー元会長の春田真さんらが参加する起業支援会社、ビーエッジ(東京・港)の出資を受けて、独立する選択肢もある。

カタパルトはパナソニックの苦しみの中から生まれた。11、12年度と2年連続で7千億円を超える連結最終赤字に陥った同社。グループ社員27万人、連結売上高7兆円弱の大企業になり、いつしかチャレンジを避け、前例踏襲を是とするマインドが定着していた。
最大の問題が、主力の家電で長らくヒット商品が生まれていない点だ。浦さんは当初、社内で事業化しようと考えた。だが上司に「2万~3万ロット売れないと無理」と却下された。「杓子(しゃくし)定規に判断する社員が多い。新しい可能性に目を向けてくれなかった」と語る。
社員の自主性を育む――。それが大企業病を打破し、イノベーションの創出につながる。そうした思いから津賀一宏・前社長が始めたのがカタパルトだった。米グーグル元幹部の松岡陽子さんらとがった外部人材も次々と引き入れ、社員のマインドを変えようと動く。
日本で起業が少ない理由のひとつが、終身雇用に代表される日本型の雇用制度にある。定年退職するまで安定的に給与が支払われるため、会社を辞めて起業しようという意識が芽生えにくい。そこで会社の支援を受けて新規事業に挑戦するイントレプレナーの重要性が高まっている。
独立には厳しさも伴う。浦さんは独立を機にパナソニックを退職。出資金5千万円のうち17%は退職金をつぎ込んだ。出資するビーエッジからは、コロナ禍で事業計画の見直しも迫られている。だが浦さんは「(パナソニック創業者の)松下幸之助に憧れて起業は夢だった。苦しくても働きがいがある」と話す。
すぐに独立を目指さないケースもある。
「プロスポーツを手軽に楽しめる配信プラットフォームを立ち上げたい」。サッカー好きだった経理部の岩山雄大さん(27)は仲間を募り、20年のカタパルトに応募した。
幹部報告会の直前、ビジネスモデルを巡りメンバーの意見が割れた。「プロチームとどこまで契約できるか分からない」との懸念から、学校のクラブチームを手当たり次第に当たることにした。「コロナ禍で子どもの試合を見る機会が減った」という保護者の声を集め、対象をアマチュアチームに絞ることを決めた。
最終選考を通過し、現在は事業化に向けビジネスモデルの詳細を詰める。岩山さんは「商品に対する思い入れが深まり、経理の仕事の幅も広がった」と今の仕事の価値を再認識し、働きがいをより感じられるようになったという。
別のメンバーで家電営業の杉岡将伍さん(27)も「顧客目線の重要性を肌で感じられた」と話す。
「社員の意識改革につながっている」(カタパルト推進部の杉山覚さん)というカタパルトだが、新たな事業モデルへのシフトを推し進める役割も大きい。
パナソニックが得意としてきた家電の売り切りモデルは価格競争に巻き込まれがちで、限界を迎えつつある。機器とサービスを組み合わせた新たなモデルへの転換を迫られているものの、既存の家電事業は「機器が一定数売れるか」など事業化判断に暗黙の基準があり、柔軟な発想が出にくかった。
事業性が見えない段階から前のめりに投資するのもリスクが大きい。だが事業化の初期を意欲やアイデアを持つ社員に委ねれば、進捗に合わせて会社の関与の度合いを変えられる。結果、周囲の空気を浄化するマスクなどの事業がカタパルトから次々と生まれている。
起業家を輩出する代名詞的な企業といえば、リクルートだ。1983年から「リング」という社内コンペを続け、社員の起業家精神を高めている。ジャンルを問わず新規事業案を募る。毎年1千件の応募があるが、最終的に残るのは数件のみ。「ゼクシィ」「R25」などの専門誌、学習サービス「スタディサプリ」もリングから生まれた。

社員の平均年齢は34.8歳。起業を目指す社員が多く、人材流出は止まらない。だがリングの責任者、渋谷昭範さんは「『卒業』として応援している」と意に介さない。リングは会社にとって、人材流出の損失以上に安定的にイノベーションをもたらす効果があるからだ。
渋谷さんは「イノベーションを生み出すのはワインづくりと同じ。天候はコントロールできないが、土壌を整備すればいずれ素晴らしいブドウが生まれる」と話す。新規事業を形にするだけなら専門部署が手がける選択肢もあるが、「多くの社員が気づきややる気を得られる機会こそが重要だ」。
ゼクシィ営業グループマネジャー、杉一輝さん(36)は20年のリングに同僚と参加。不妊治療の障害をなくすサービスを提案したが、2次審査で落選した。杉さんは「新規事業を生み出す苦労が分かり、自らの事業のことも見直すようになった」と仕事に改めて働きがいを感じるようになったという。
日本生産性本部の調査によると、日本の19年の時間当たり労働生産性は47.9ドル。1970年以降、主要先進7カ国で最下位が続いている。その理由として大きいのが、仕事に主体的に取り組むオーナーシップ意識の欠如だ。
社内起業コンペには時間も労力もかかるが、その分、自らの裁量で決められる範囲も広がる。リスクと背中合わせの働きがいは、仕事への向き合い方を変えるきっかけにもなる。
起業の評価・環境劣る日本
国際的に見て日本の起業マインドは高くない。グローバル・アントレプレナーシップ・モニターの調査では2020年、3年以内に新しいビジネスを計画する成人の比率は日本が7.8%だった。19年の7.3%からは増えたが、韓国の34.3%、米国の18.6%、ドイツの12.7%などと比べ大きく見劣りする。
理由のひとつが、起業家に対する社会的な評価の低さ。調査によると、起業という職業選択に対する評価で、日本は調査対象の36カ国中最も低かった。個人投資家の活動など、環境面でも平均を大きく下回っている。
社会的に起業を後押しする仕組みがない以上、社内起業の役割は大きい。新しいヒット商品・サービスの開発は企業の実利にもなる。
新陳代謝の中でこそイノベーションは生まれる。21年度の中小企業白書によると、日本の開業率は4.2%。英国(13.5%)や米国(9.1%)と差がある。一方、廃業率でも英国(11.3%)、米国(8.5%)よりも日本(3.4%)は低く、新陳代謝があまり起きていない。
重要なのが、社員に社内コンペのような実践の場を与えることだ。起業するための知識・能力・経験を持っているかという問いでも、日本は15.2%で、米国(64%)と大きな開きがある。リスキリングなど社員教育に力を入れる企業が増えているが、実際のビジネスに即して得られる学びの効果は大きい。
着想から企画立案、事業計画の作成まで自ら考え、主体的に動く社内コンペはイノベーションの源泉になるだけでなく、社員が仕事の価値を再認識し、働きがいを感じられる貴重な場でもある。コンペで勝ち残らなくても参加した社員の多くは実践的な知識や能力以上のものを手に入れることができる。(林英樹)
[日経電子版 2021年09月20日 掲載]