
辞令一つで国内外どこへでも赴任する――。会社員にとって回避困難とされてきた転勤制度。その見直しにJTBは動き出した。テレワークをベースに赴任せずとも遠隔地勤務を認める。家族と離れて単身赴任を強いられるなど転勤には様々な課題があった。コロナ禍が招いた苦境のなか、テレワーク普及が図らずも問題解決の扉を開いた。
「えっ、新温泉町に住んでいるんですか?」。JTBグローバル統括本部の西村龍平さん(55)は挨拶回りで毎回驚かれる。差し出す名刺の勤務先住所は「東京都品川区東品川」。ただ、実際の仕事場は兵庫県の日本海側・新温泉町の実家の一室だ。「東京本社や海外拠点とウェブ会議や電子メールなどを駆使して業務をこなす。全く支障はない」
2020年12月末までシンガポールの現地法人に赴任していた。外国人向け東京五輪・パラリンピック観戦ツアーなどを企画・営業していた。コロナ禍による開催延期で東京本社内のグローバル統括本部に異動辞令が出た。転勤は常に覚悟している。シンガポールへも兵庫県明石市の自宅に妻子を残して単身赴任した。今度は東京で一人暮らしか……。そう思った矢先、会社から意外な提案を受けた。「赴任は不要。働く場所はどこでも構わない」
仕事が回るのか不安を覚えながらも、まずは明石市の自宅に戻った。やってみればテレワークベースで問題はない。東京の職場に出向いたのはパソコンを受け取った一度だけ。「できる」と確信して3月下旬に新温泉町の実家に移った。一人暮らしをする80代の母が心配だったからだ。炊事・買い物などを西村さんが担い、母の生活を支える。「1年前には想像もしていなかった豊かな暮らし」だ。

JTBは国内47都道府県、世界38カ国・地域に支店・拠点を構える。転勤は職場の日常風景だ。だが昨年10月に「ふるさとワーク制度」を導入し、転勤が前提の働き方を見直した。テレワークなどで仕事がこなせるならば引っ越さなくてもいい。現在22人の社員が自分の希望する場所に住みながら、遠隔地の部署の仕事に就いている。
きっかけはコロナ禍のテレワーク普及だ。昨年の緊急事態宣言下、会社を挙げてテレワークを実施した。6月に社員へアンケートをしたら「生産性が上がった」37.8%と「変わらない」35.7%をあわせて約4分の3の社員が支障なく働けていた。ブランド・コミュニケーション担当マネージャーの芦原真由美さんは「家族と離れ離れの生活を迫られるなど転勤のあり方が以前から課題だった。テレワークが可能なら転勤もなくせると制度改定に踏み切った」と説明する。

実際、単身赴任を解消した社員もいる。団体企画部担当課長の山内務さん(54)だ。職場は大阪だが、広島の自宅に帰りたいと3月に申請し、今年4月に所属や仕事内容はそのままに広島に移った。約24年のJTB勤務のうち広島で暮らしたのは10年ほど。大阪、香川など転勤を繰り返してきた。「去年はコロナ禍で帰省もできなかった。今は毎晩妻と娘と食卓を囲める」
山内さんは広島市のJTB拠点に自席も得た。オフィス勤務を希望する社員にはサテライトオフィスも準備する。「サテライトオフィスに行けば顔見知りがいる。適度に雑談もできて孤独のストレスも感じない」
現在の利用者は企画立案部門の社員がほとんどだ。対顧客の店頭職は希望申請がなく、現状ゼロ。ただ「できるはずない」と決めつけず、対象職場・職種を今後拡大していく。子育て中で転勤不可の地方在住の女性社員が同制度を使って東京本社の国際事業に携わっている事例もある。赴任前提では難しかった業務を担うチャンスが増え、人材育成にも効果が見込める。
ふるさとワークは昨年10月に打ち出した「新たなJTBワークスタイル」の一環でもある。ワーケーションや年間勤務日数を最少177日に抑える勤務日数短縮制度なども導入した。なぜ今、働く時間や場所の柔軟性を大胆に高めるのか。それはコロナ禍での経営状況も関係する。
JTBは2021年3月期の最終損益が過去最大の1051億円の赤字となるなど苦境にあえぐ。定年退職に伴う自然減や早期退職などでグループ人員を7200人削減し、22年度新卒採用も見合わせる。転勤制度の見直しはワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)向上に寄与するだけでなく、引っ越し費用や単身赴任手当などが不要になり、会社にとっても経費節減効果が見込める。
執行役員の高崎邦子さんは「こんなときこそ気持ちを前向きにさせる施策が重要。柔軟に自律的に働けるようにして、働きやすさと働きがいを高めれば社員のエンゲージメントも上がり、一人ひとりのアウトプットも増える」と期待する。
転勤による人材育成 転居を伴わない異動でも同様の効果
独立行政法人労働政策研究・研修機構「企業の転勤の実態に関する調査」(2017年)によると、企業が転勤を実施する目的(複数回答)は「社員の人材育成」66.4%がトップで「社員の処遇・適材適所」57.1%、「組織運営上の人事ローテーションの結果」53.4%と続く。本社と比べて人員が少ない地方拠点・支店は一般的に1つの部署の担当領域も、社員1人の権限も広い。いわば鍛錬の機会が多く、それが社員の成長を促すというメカニズムだ。

実際、転勤は個人の成長に役立っているのか? 慶応大学の鶴光太郎教授らは17年度に「転勤・異動・定年に関するインターネット調査」をまとめた。大企業の大卒以上社員を対象に転勤経験の有無、職務遂行能力、賃金、昇進の実績など尋ね、それらの相関関係を調べた。
転勤経験者は未経験者と比べて業務経験の幅も広く、スキルの習熟度も高く、時間当たり賃金も10%程度高かった。賃金の上昇は転居を伴わない人事異動でもみられたが、課長以上への昇進確率はそれを上回る効果があった。「転勤にはパフォーマンスを高める一定の役割が認められる」(鶴教授)
転勤経験者も「人脈作りで役に立った」「職業能力全般が向上した」などメリットを挙げる。ただこれらは転勤でなくても身に付く。半面、「単身赴任などで家族との生活が犠牲になった」などデメリットも感じている。
鶴教授は転勤制度を「我慢大会」とも表現する。生活基盤が一変するストレスにさらされながらも会社の意向に誰が耐えられるか。勝者の報酬が昇進・昇格や昇給だ。「テレワークが普及した今、仕事を通じた成長なら現地に赴任せずとも実現できる。働く側が負担に感じる転勤は見直す時期にある」と指摘する。
(編集委員 石塚由紀夫)
[日経電子版 2021年05月31日 掲載]