官僚と民間人がお互いの職場を自由に行き来することで、政策の質を高めていく。「回転ドア」にも似たこの人事交流が、日本でも少しずつ広がってきた。いちど民間に出た後に舞い戻り、官の仕事の価値に気づいた人がいる。民間の視点とともに官に入り込み、変革へ意気込む人がいる。共通するのは「今のままの中央官庁では持続可能性がない」という危機意識にほかならない。古い、お堅いと言われ続けてきた霞が関で、いま起きている変化の芽を追う。

2011年3月11日、東日本大震災が起きたその日、国土交通省出身の官僚、山本慎一郎(43)はタイ・バンコクにいた。00年に旧建設省(現国交省)に技官として入った山本は当時33歳、バンコクの日本大使館に駐在中。母国に襲いかかる未曽有の災害をテレビの画面越しに見つめることしかできなかった。
フェイスブックなどSNS(交流サイト)をのぞけば、震災の直後から被災地に入り東北の支援に身を砕く知人、友人の姿が目に飛び込んできた。学生時代はまちづくりを学んでいた山本が「もっと現場感がある仕事をしたい」と感じ始めたのはこの頃からだ。

バンコクで出会った国際機関で働く人たちの存在も、自身の働き方を見つめ直すきっかけになった。国際機関は任期付きのポストが多く、一人一人がその時々の自分に見合った仕事を選択して、キャリアを積み上げていく。「自己決定型のキャリアを築きたい」という思いは帰国後も消えなかった。
「現場感」求め、肩書を捨てる
12年11月、山本はモヤモヤした気持ちを振り切るように、国交省を辞めて霞が関を去る。国家公務員の肩書を捨て、向かったのは東北だ。
復興事業の立案や実行を担うNPO「RCF復興支援チーム(現RCF)」に加わった。当時のRCFには「復興に関わりたい」「ボランティアではやり足りない」と同年代の精鋭たちが集っていた。金融機関やメーカー、商社など多様なバックグラウンドを持つメンバーの中で、官僚出身の山本の強みは何だったか。

自身も元マッキンゼーでRCFを立ち上げた代表理事の藤沢烈は、「被災地の複雑な利害関係を理解して、各所に目配りしながら調整を進めてくれた」と振り返る。
スピード重視の民間出身者が多い中で、時として霞が関の悪習のようにも言われがちな丁寧な根回しがむしろ山本の大きな武器になっていたという。
山本自身も、求めていた「現場感のある仕事」に没頭した。東北の復興では原発事故で避難を余儀なくされた地域でコミュニティーの再建にあたった。
その後、活動範囲を広げ、関西の自治体のアドバイザーも務めるようになった。土地の有効利用に悩んでいた京都の久御山町では区画整理の事業を立ち上げ、成果は地図に残る。家族と暮らす東京から、西へ東へ飛び回る日々が続いた。
ところが2021年春、山本の姿は再び霞が関にある。どういうわけだろう。
舞い戻った霞が関、「ごく自然な流れ」
6年あまりの「現場生活」を通じ、気づいたのは地域の課題は無限にあるということだ。ある村の問題が解決できても、隣の村もまた同じことに悩んでいたりする。「個別の現場で見たものを霞が関に持ち帰れば、何かやれることがあるのではないか」今度はこうした思いが芽生え始めた。
そんな折、経済産業省の中途採用の知らせを目にする。

そのころ第2子が誕生したこともあり、自身の視線も変わり始めていた。「自分がどう生きたいか」から、「次世代に何が残せるか」へ。19年、山本は再び霞が関に戻る。「自分としてはごく自然な流れだった」と振り返る。
山本のいまの肩書は、経産省資源エネルギー庁の新エネルギー課・課長補佐。洋上風力発電の導入促進に取り組む。政府はこのほど温暖化ガスの排出を13年度比で46%減らす目標を決めた。目標達成に欠かせない再生可能エネルギーの中でも、大量導入や経済性の高さから洋上風力にかかる期待は大きい。
山本のミッションは、洋上風力発電の「促進区域」を法律に基づいて指定するための調整だ。建設や運転、保守などで地域経済へのプラス効果が見込める一方、海域を先行して利用してきた漁業関係者の理解を得るのは容易ではない。
心がけているのは地方との対話。「まずはどんな不安があるか聞くことが大事」と思うのは、自分自身が地方で仕事をしていた時に感じた中央との距離感の裏返しかもしれない。コロナ禍で出張が減っても「相手の立場に立って、想像力を働かせる」ことを目指す。
「その時々で、自分のリソースを最大限発揮できる場所を探せばいい」と話す今の山本の姿勢は、どこか軽やかに見える。回転ドアをくるりと回って出入りし、自分のキャリアの手綱をしっかり握った。
「回転ドア」を駆使するキャリアの作り方
まだまだ霞が関でも数が少ない「回転ドア」組。その先駆者が金融庁の審議官、堀本善雄(55)だ。

堀本は1990年、旧大蔵省(現財務省)に入省した。順調に出世コースを歩んできたが2008年、金融サービス向けのコンサルティング会社「プロモントリー・フィナンシャル・ジャパン」に転じた。当時43歳。事務次官コースの登竜門、文書課企画官を務めており、突然の転身に省内はざわついた。
堀本は当時を振り返り「何か仕事に不満があったとか大きな問題意識があったとかではなく、魅力的な仕事を見つけたので、組織に関係なくただただやってみたいと思って」と、淡々と語る。
初めての民間企業で苦労もした。その一つがネットワークづくりで、「役所の肩書がなくても、個人として付き合ってくれる人を探す難しさを知りました」。収益に対する責任感も痛感した。官僚時代も頭ではわかっているつもりだったが、売り上げへのプレッシャーを身にしみて理解した。

堀本は13年、金融庁の参事官としてまた霞が関に戻ってきた。
かつて金融庁は強力な検査機能を武器に金融機関の不良債権処理を進める姿勢から「金融処分庁」と揶揄(やゆ)されたが、リーマン・ショックなどを経て、金融システムの潜在的な危機に先回りして対処するための組織見直しに取り組んでいた。
テクノロジーと融合した金融サービスはめまぐるしく変化する。官民双方の視点を持つ人材が何より求められていた。「大きなチャンスだと感じた。自分のポジションを最大限生かし、付加価値のある仕事をしたかった」。この時もあくまで仕事内容が決め手。どの組織かはあまり重要ではなかったという。
「日本的組織の象徴」に新風吹き込むか
山本と堀本に共通するのは、官と民の境界線をそこまで意識していないという点だろう。能力や人脈を一番生かせる場所を探した結果が、官であったり民であったり、中央であったり地方であったりするだけ。堀本は若手からキャリアの相談を受けるといつも「これからますます官か民の継ぎ目がなくなるから、区別する必要はない」とさらりと告げる。
人生100年時代が迫る中、働く人たち一人一人に問われているのは、組織をあてにせず自分のキャリアを主体的に設計していく意志だ。実力より年次優先、横並びでやりがいに欠けるーー。そんな日本的組織の象徴と位置づけられてきた霞が関の世界でも、回転ドアを動かす人たちが新しい風を吹き込もうとしている。
[日経電子版 2021年05月17日 掲載]