
2020年10月6日、日用品大手ライオンの社員の広岡茜(37)は、明石宗一郎(34)に準備中の新規事業について話した。明石は大企業向けの新規事業開発支援が本業。現在はSAPジャパンに在籍し、同社やコマツなどが設立した建設作業効率化システムのランドログ(東京・港)に出向している。新規事業を立ち上げた経験から、ライオンで副業人材として採用され、助言役を務めている。

2人が話すのはこの日が初めてだった。広岡は新規事業の構想を話したが、明石は首をかしげた。「どのようなサービスなのか、よく分からない」。自分の経験を事業に結びつけようとする広岡の熱意は伝わってきたものの、競合の多々いる中で本当に収益化ができるのか、そうした具体的な道筋が見えづらかったのだ。
2人が出会う1年半前の19年4月。ライオンは「NOIL」と名付けた新規事業プロジェクトを始めた。担当する佐々木聡(42)は「ライオンは歯磨きや手洗いなどの生活習慣をつくってきた。製品だけでなく、より広い意味で生活習慣を考える狙いだった」と語る。
NOILは「LION」のつづりを逆にした。日用品を販売してきたライオンの事業を捉え直したいとの意図が込められている。既存事業にとらわれないアイデアを社員から募った。
「夕飯を作ってもらえませんか」
これに広岡が手を上げた。06年に入社した広岡は札幌市で2年半営業を経験し、衣料用洗剤の部署に異動。「ナノックス」や「アクロン」などの商品開発に10年以上携わった。

広岡は2年前から温めていたアイデアを提案した。当時子どもが1歳だった広岡は育児の負担を軽減するため、できるだけ料理の手間を省きたかった。そんな時、自宅近くの洋食店にふらっと立ち寄り「夕飯を作ってもらえませんか」とお願いをした。
週に何度か煮物や魚など家庭的なおかずを作ってもらい、仕事帰りに持ち帰った。顔なじみの店主が作ってくれる安心感で、仕事と育児の両立が一気に楽になった。保育園のママ友に話すと、似た悩みを抱えている人が多いことが分かった。
広岡は自宅近くの飲食店に家庭的な夕食を予約できるサービスとして、NOILに応募した。ライオン社長の掬川正純(61)は「地域のリソースと生活者の悩みをつなげる発想がおもしろい」とゴーサインを出した。
想定を超える1649人の応募
広岡は衣料用洗剤のプロだが、新規事業を立ち上げた経験はない。創業から130年、一貫して日用品を手掛けてきたライオンでは前例のないサービス分野への参入だ。どのように進めていくべきか。
そこでライオンは新規事業を立ち上げた経験がある副業人材の募集に踏み切った。採用が難しい専門的な分野の人材は、副業の方が集めやすい。働く側も新型コロナウイルスの感染拡大で在宅勤務が増え、浮いた通勤時間を副業にあてやすくなっていた。想定を超える1649人の応募があり、8人を採用した。そのうちの一人が明石だった。

明石は、事業化にはやるべきことが多くあると感じていた。宅配サービスは無数の競合がひしめく。飲食店の予約サイトもある。そもそも弁当を買って帰るのと何が違うのか。なぜライオンが参入する必要があるのか。本当に需要があるのか。広岡は、明石の問いに納得できる答えを見いだせないまま1カ月が過ぎた。
「利用者の声を直接聞いてみれば何か見えてくるのではないか」。明石は広岡にアドバイスをした。実証実験の利用者に話を聞くと、競合と思われたサービスも併用している人が多いことが分かった。近所の飲食店に夕食作りを依頼する、というコンセプトのサービスは珍しい。利用者には、コロナ禍で厳しい近所の飲食店を支援したいという思いもあった。「いけるかもしれない」と思い始めた。

チームメンバーは、「KPI」と呼ばれる評価指標をどう設定するか議論した。製造業では一度決めたKPIは変えないのが当たり前。洗剤のKPIはシェアなど前例があるため設定が容易だが、サービスとなると話は別だ。
広岡が提案したKPIは利用者数だった。利用者を増やすのはもちろん重要だが、飲食店の参加も不可欠だ。自身の経験を考えの起点とする広岡は、どうしても利用者視点が強くなりすぎてしまう。
社員がキャリアや専門性を意識
明石は広岡にアドバイスを送った。「新規事業のKPIは定期的に変えても問題ないですよ」。明石のアドバイスで広岡の心は軽くなった。100店舗、利用者5000人を初年度の目標にすることで落ち着いた。
そして2021年2月、「ご近所シェフトモ」と名付けたサービスが始まった。魚料理や漬物、サラダなど家庭向けの総菜が中心。LINEで自宅の住所を入力すると近所の店が表示され、予約できる。ライオンは飲食店から、売上高の15%を手数料として受け取る。

洋食店カズサヤ(東京・港)はコロナ禍で一時期売り上げが3分の1に落ち込んだが、「ご近所シェフトモ」で1週間に40食ほど利用があり、店の経営を支える。1週間分をまとめて予約してもらうため販売の見通しが立てやすく、食材の廃棄も減らせる。
明石のような副業人材はライオン社内の雰囲気も変えつつある。社長の掬川は「専門性を持った副業人材と接し、社員が自分のキャリアや専門性を意識するきっかけになっている」と語る。

発案した社員の熱意を、外部人材のサポートで事業化に結びつけたライオン。新鮮な外部の風が、事業だけでなく社内の意識の幅を広げつつある。
=敬称略
[日経電子版 2021年04月06日 掲載]