
企業がビジネスモデルを抜本改革するデジタルトランスフォーメーション(DX)は、日本の人材育成にも変革を迫る。社員の能力開発は「職場内訓練(OJT)」が定番だが、今ある仕事のノウハウを先輩や上司から学ぶのにとどまりがちで、新しいサービスや事業プランを描く力は身につきにくい。一般の社員をDXの戦力に仕立てるには、体系的なプログラムづくりなど社内教育のテコ入れが求められる。
食事の内容、睡眠時間や介助の記録。これまでかかった病気や健康診断結果の推移――。損害保険大手、SOMPOホールディングス傘下の介護サービス会社や生命保険会社などは、顧客に関する多様なデータに接する機会がある。厳格な個人情報管理を前提に、これらのデータはその人に最適なサービスを考えるための貴重な資源になる。
デジタル技術を活用した新しい商品・サービスは今後の事業のコア(中核)だ。SOMPOHDは2020年10月から、その企画・立案に携わる「DX基礎人材」の養成を始めた。社内のデータサイエンティストやIT(情報技術)エンジニアらの協力を得ながら、事業革新をけん引する社員たちだ。

20年度はグループの約700人が担当業務をこなしながら、社内講師のもとオンラインで、DXに必要な知識を習得するプログラムを受講。研修資料は600ページにのぼる。柱のひとつはクラウド技術や人工知能(AI)などデジタル技術の素養を高めること。データの分析・活用方法の理解が不十分では、新しいサービスの創造はおぼつかないためだ。
もうひとつはDXを阻む社内慣行や組織上の問題を探り、その打開策を考えることだ。リポート提出も頻繁にある。たとえば「自分の部署でどのようにDXに進めるか、改革案を求める」(研修を運営するSOMPOHDデジタル戦略部)。
こうしたDXの担い手の養成は、日本企業に浸透してきたOJTでは難しい。OJTを通じて職場の先輩たちから後輩が受け継ぐ仕事の進め方やノウハウは、企業のこれまでの成功体験に基づくものが多い。ある日突然、異業種から競争相手が現れるデジタル時代には通用しにくい。技術革新や経済の構造変化とともに、企業の人材育成の方法も見直す必要がある。
国内で働くグループの全社員を対象に、DXの初歩から学ぶ機会を設けたのは日立製作所だ。
研修子会社の日立アカデミー(東京・台東)が「デジタルリテラシー教育」のプログラムをつくり、20年4月からeラーニング形式による社内教育を始めた。自分の担当分野の業務改革を考えながら、1年間かけてDXの基本を習う仕組みだ。
全体で4つの段階から成り、ステップ1はそもそもDXとは何かを学ぶ。ステップ2では技術の知識よりも課題の明確化が最重要なことを押さえる。ステップ3ではデジタル技術を活用した課題の解決方法の導き出し方を、ワークシートを使いながら習得。最後のステップ4は業務改革プロセスの組み立て方を学習する。こうして身につける基礎的なスキル(技能)が、顧客の生産性向上などを支援するサービス提案の土台になる。
OJTは先輩や上司によって教え方や熱心さにばらつきがあり、仕事に必要な知識やノウハウを十分に吸収できないリスクがある。オンライン形式なら、優秀な講師による質の高い教育の一斉展開が可能だ。地方勤務者らに均等に教育機会を設けることができるのも大きなメリットだ。
海外では、従業員が働きながら仕事に必要になる能力を養う「リスキリング(再教育)」が活発になっている。主眼はDX時代に求められる知識やノウハウの習得だ。米国のアマゾン・ドット・コムは10万人の社員を対象に、AIの基本技術などの再教育を進める。ウォルマートもデジタル技術を使って経営効率化をけん引する人材の養成に力を入れている。

日本は社員の「学び直し」が低調だ。通常業務を離れての教育訓練である「職場外訓練(OFF-JT)」に企業が投じる金額は伸び悩む。厚生労働省の能力開発基本調査によると、従業員1人あたりのOFF-JT費用は08年度に2万5千円だったが、その後は2万円を割り込む年度がほとんどで、19年度も1万9千円ににとどまる。
同調査では正社員の教育訓練で、「OJTを重視する」「OJTを重視するに近い」と回答した企業が合わせて7割を超えた。どんな仕事をどのような順番で経験させていけば効果的かを考え、段階的にレベルを上げていくのがOJTだ。着実に職務遂行能力を高める合理的な手法として日本企業に定着してきた。
しかしOJTがその強みをフルに発揮できたのは、需要が右肩上がりで伸び、それまでの経験則が通用した高成長期のことだ。DX時代に入り、状況は様変わりしている。OJTが不要になったわけではないが、過度の依存はデジタル化の流れから取り残される恐れがある。
[日経電子版 2021年01月28日 掲載]